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無邪気な人の呪い方。

 アパートの一室に、男が住んでいた。ある夜更け、翌日の仕事に備えて眠ろうと、部屋の電気を消す。すると、玄関の方から、何やら声が聞こえた気がした。しかし、この時間だ。気のせいだろうと思い直して、眠りにつこうとすると、また聞こえ出すのだ。氷で作った楽器のような、澄んだ声は、女のものだろう。そこまでわかっても、何を言っているのかは聞き取れない。

 起きあがって、耳をこらすと、それが聞こえなくなるのだ。
「なんなんだ、まったくもう」
 男は不眠になった。そんな夜が、もう二週間ほど続いた。

 男は寝不足がたたって、周囲からも不健康そうに見られるようになった。疲労がたまり、些細なことでいらついたりしては、人に悪い印象を与える。

 そうしてストレスがピークになった夜、それは現れた。

 声は日増しに大きく聞こえるようになってきた。そして、その日は耳元で、囁くように語りかけてきた。
「あの、こんばんは」
 男は突然話しかけられて、飛び起き、頭を振った。見ると、女が枕元に行儀よく正座していた。その姿勢で、床に届くほど伸びた長い髪は、絹糸を梳いたような白髪だった。薄着から除く腕や足や胸元も抜けるような白。暗闇に、茫と浮かび上がるように、その女はいた。
「な、なんだ、お前。どこから入った」
「玄関からです」
「玄関は、鍵をかけたはずだ」
「ええ、でも、わたしは確かに玄関から入りました」
「どうやって」
「すり抜けたんです。わたしは、幽霊ですから」
 男はばかばかしい、と声を荒立てて、立ち上がった。
「来い、不法侵入で交番につきだしてやる」
 そう言って彼女の腕を乱暴に取って立ち上がらせようとすると、そこに何もないかのようにすり抜ける。目測を誤ったかと思って何度も試すが、結果は同じだった。
「わかってもらえましたか」
「ええい、くそ。この間から聞こえていた声はお前か。なんだ、俺を呪い殺しにでも来たのか」
 男はどかりと座り直して、落ちつこうと試みる。女は、呪い殺すという言葉に反応して、弁解を始めた。
「そんな、そんなことはしません。話し相手が、ほしくって。生きている人で幽霊と話せるのは、そういないですから」
「冗談じゃない。お前のせいで、ここの所寝不足がひどい。仕事にも支障が出るし、人はさけるし、どうしてくれる」
「え……」
 女は本当に驚いたような顔をして、それからすぐにしおらしい声で言った。
「そんなつもりはなかったんです、ごめんなさい。ほんとうに、ただ話し相手がほしくて」
 どうやら、本心らしい。そうこられると、男の方もなんだかばつの悪い気がしてきた。ここの所いらついていたから、それをぶつけてしまったとも解釈できる。男はなんとか、いや言い過ぎたとだけ謝った。女は、うなだれて、哀しそうな様子で、帰ります、ごめんなさい、と言って立ち上がった。
「まあ、待てよ。今のは、こっちも悪かったのだから」
 言ってすぐに、放っておけばよかったと後悔した。けれど、そうするほど男は良心を放棄できなかった。よく見ると、女は割と幼い顔立ちをしていて、少女でも通りそうだ。頭に、「美」をつけてもいい。そんな少女が、ばつの悪そうにしているのを見ると、やはり放っておけなかった。
「少しくらいなら、話し相手になってやる。おれみたいなのを探すのは、大変なんだろう」
 少女はめんくらったようにまばたきを繰り返して、すぐにぱあっと笑顔を輝かせた。それもまた、屈託のない、純真な表情だった。

 男は話しているうちに、時間を忘れていた。少女は各地で見たこと聞いたことを話した。男女の色恋沙汰だったり、あるいは某大企業の不正取引の現場だったりしたが、どれも幽霊ならではの視点で、食い込んだところまでを詳細に、劇的に、時折ユーモアを交えて語る。万引き男の捕り物の話が終わった頃、少女が言った。
「もう、時間だわ」
 男が時計を見ると、もう夜明けが近かった。一晩中、話を聞いてしまったらしい。
「朝日が昇ったら、この姿を保てないの。人魂になって、外でお話のタネを集めてくるのよ」
「そりゃあ、不思議なこった。また、聞かせてくれよ」
「また、来ていいの?」
「もちろん、楽しかったよ」
 少女はやはり無邪気に喜んだ。感情を偽るということを、知らないようだった。男は少女のそんなところが、一番魅力的だと思った。

 男は一晩寝ていない割には、その日は健康的に過ごした。今までに覚えたことのないほど気分がよかった。一日中、気がつけば彼女のことを考えて過ごしていた。

 その日の夜も、その次の夜も、少女の霊はやってきた。男は自分の体験も聞かせるようにした。少女はその度に過剰にも思えるほど驚いたり喜んだりした。その反応を見るのは、男にとって楽しみだった。

 男は話のタネを積極的に探して色々な人に話を聞くようになった。いつの間にか聞き上手になっていた。話にも磨きがかかり、人気者になった。

 夜になると、少女と話をする。段々と、話をすることは空気を吸うのと同じようになった。そうなると、次に男は少女の仕草に夢中になった。微笑むときの頬のゆるみ方、含み笑いをするときの押し出される吐息の甘美な響き、拗ねるときの口元、床に上品に座るスカートからのぞく足、シャツの下の細くしなやかな体躯、胸元からのぞくなだらかな双丘。時折、あどけなさが、無防備なほどなまめかしい。異性というものを知らないのだ。男は、少女のそんなところが、一番魅力的だと思った。

 男は毎日少女のことを考えて過ごした。少女の少しの仕草や言葉を逃さないようにと心がける内に、洞察力がいつしか身に付いた。男は人をよく観察していると評判で、人事部に異動し、異例の早さで昇進した。一方で何もかも見透かしたようなことを時々口にするので、主に女性に気味悪がられ始めた。

 夜になると、少女を観察する。段々と、見ているだけでは足りなくなってきた。男はついに、何も言わず、少女を抱きしめた。押し倒した。だが、腕はすり抜け、空虚な空間を捉えるだけだ。少女は、突然一人倒れた男を眺めて、不思議そうに首をかしげた。やはり、異性というものを知らない。

 男はいらついた。目の前にいるのに、手が届かない。話す声は耳元で聞こえるのに、その唇を奪えない。朝になると、儚く消えてしまう。しかし夜になると、確かに彼女は戻ってくるのだ。男はエサをちらつかされたライオンのように、息も荒く、やはり彼女のことばかりを考えて過ごした。繰り返しだ。このままでは、頭がどうかしてしまう。もう来ないでくれとも言えない。少女は本当に哀しそうにするだろうし、それは建前で、男にはあの美しくいじらしい時間が必要だった。夜が来るたびに、男は少女を自分のものにしようとした。抱いても抱いても抱けない少女の、そんなところが、一番魅力的だと思った。

 男は毎日狂いながら破滅へ向かった。そしていつしか……

 少女の幽霊は、難しいことは何も知らないのだ。男も知らないし、嘘も知らない。呪い殺すだなんて、生やさしいことは知らない。

→ つたない言葉のつむぎ方。2

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