ココロと月の眺め方。
恋人が月を飼い始めた。カーテンを開け放した窓の外には既に深い闇が落ち、星の瞬きが狭い部屋に飛び込んできている。その全てを受け、窓辺には水だけをためた水槽が置かれていた。彼女は指さして満足そうに微笑む。
僕が上から覗き込むと、揺れる水面に自分の顔だけが映った。彼女に違うと指摘され、距離を置いて角度を変えてから見ると、水鏡に、捕獲された半分の月がくらげのように泳いでいた。
餌をやるでもなく、つついてみたりもせず、彼女は飽きることなく月を眺めていた。たまの休みに昼にも家にいるときなどは、月が出かけている間に、水を換えたりもしているようである。
初めのうちは僕も無邪気なものだとばかり見ていたが、やがて、気味が悪くなった。lunaticという単語が「狂った」と言う意味を持つのは、月の女神ルナが一神教であるキリスト教に受け入れられず悪魔神とされていた時代のなごりだというが、それを差し引いても月には狂気の魔力が満ちているように思えた。
夜の闇を、真円を描いた蜜月が統べる夜、世界のどこかで狼男が猛り、吸血鬼が謳歌するに相応しい狂気が、部屋には満ちていた。僕は、月にかかりきりの彼女に、狂っていると、面と向かって告げた。
彼女は、哀しそうな陰をそのやせた頬に浮かべ、正気の瞳で僕を見た。僕は、自分でも知らぬ情動に任せて、水槽をひっくり返して、逃げ出した。
その時の、彼女の表情は、泣き出しそうにも、怒っているようにも見えない、鉄面皮のそれだった。
しばらくの間、顔を合わせづらくしていたが、家から茫と空を眺めているうちに、半分の月を見つめている自分に気づく。この間の半月とは違い、消えゆく途中の金の月だった。
謝らなければならないと決心がようやく付いて、僕は彼女の部屋に行った。彼女は凝りもせず、また水槽に水を張って、月を泳がせていた。
彼女は怒った様子もなく、許してくれと言っても、何のことかと言う始末だった。僕は相変わらずの彼女らしさに、少しの苛立ちと、大きな安堵を抱いていた。
ある日、水槽に泳いでいたのは、消え入りそうな、細々とした月だった。浮き船のような様相の月を、彼女はどこか物憂げに眺めていた。
翌日、浮き船はどこかへと泳ぎ去ってしまった。
満月から二週間ほど、新月の日だった。彼女は淋しそうな瞳で水槽を眺めていたが、やがて久々に、僕と彼女は恋人らしく語らった。彼女の顔には穏やかな、正気の笑顔が浮かんでいた。
反面、僕は月をなくした空のように、空虚な心持ちでいた。どこか、ごく自然にふるまう彼女に、物足りなさのようなものを感じていたのだ。
さらに翌日、月は帰ってきた。再び月にかかりきりになる彼女を満足げに、愛おしく眺めながら、僕はある結論に至った。
全て狂気は、僕の抱いたものだったのだろう。
/了 Inspired By 『月飼』, Porno Graffitti