つたない言葉のつむぎ方。
「だ、だめだ……」
男は持っていたペンを落として、うなだれた。大きくため息をつくと、足の低い丸テーブルに置かれたまっ白な紙がふわりと二センチほど遠ざかる。
コップの麦茶を一口に飲み干すと、彼はそのまま畳に倒れ込んだ。
意識が半分ほど白くまどろみかけたその時、玄関のドアが開かれる音がした。いつもの事ながら、ツカツカと無機質な足音が聞こえてくるのは、割と心臓に悪い。
「先生、こんばんは」
抑揚のほとんど無い、機械的な挨拶は、しかし声だけは可愛らしい少女のものだ。男は部屋の扉の方に首だけ向けると、見慣れた声の主が立っていた。髪の毛が根本からまっ白という変わった少女で、その髪は腰まで伸びている。青のスカートに薄桃色のブラウスという外に出れば相当目立つ服装に、真っ赤なネクタイを締めている。
「ういっす」
「どうしたんですか先生。だらけきった顔をして。何かあれに似てますね。なんて言いましたっけ、あの動物。ナマケモノ?」
「さらっと人をバカにする発言をするなっ」
少女は心外だ、という表情をしてから部屋の中へ入ってくる。男は体を起こして、ちゃぶ台に向かう。机の上の紙――原稿は、まだまっ白なままだ。
彼はいわゆる物書きで、少女はアシスタント。そんな何でもない関係だ。少女は原稿と彼を見比べて、ふむ、とうなった。
「……なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
男が開き直った様子でぶっきらぼうに言うと、少女はやはり平坦な声と凍り付いた無表情で答える。
「はい。書き上がらないのは気にすることありませんよ。どうせ仕事があるわけではありませんから」
「はっきりと言いすぎだっ!」
と、そんな漫才を延々繰り返して今に至る。
「書けない、ですか」
「ああ、何でかな。言いにくいんだけど、どうしたら面白いモンが書けるだろうとか、うけのいいモンを書くにはどうしたらいいだろうとか、考えると、わけわかんなくなっちまって」
男は深刻な様子で信頼を寄せるパートナーである少女に打ち明けた。……打ち明けて『しまった』。それが間違いであったと気づくのに、僅かに遅れたために。
「才能のせいじゃないでしょうか」
「あー、もういい」
しばし二人、無言でちゃぶ台に向かっていると、少女が突然立ち上がった。
「先生、ちょっと散歩にでも行きませんか」
「気晴らしか? まあ、いいけど」
「いえ、頭を冷やすにはもってこいかと思いまして」
窓の外を見ると、星がぽつぽつとまたたいている他は、闇に沈んでいる。風が枯れ木を揺らすのを見るだけで、体が震えるようだ。
「……やめない? 寒いって」
「やめません。行きますよ」
少女は男の腕を引いて無理矢理立たせ、引きずるようにして外へ連れ出していった。
いざアパートを出て歩いてみると、コートさえ着ていればそれほどの寒さは感じなかった。二人は一時間ほど歩いた後、自動販売機で温かいコーヒーを買って、公園のベンチに落ち着いた。
「いや、こういうのも、新鮮でなかなか」
二人並んで缶コーヒーをすすりながら、外を歩いたのは久々だったかもしれないと、悲鳴をあげる膝に弁解する。
「運動不足ですね。物書きには体力も必要です」
ずばりその通りなので、つっこみは入れない。何となく、上を見上げた。月は細く、そのせいで空は暗い。
「なあ、何で俺なんかのアシスタントやってるんだ、お前は」
男はふと湧いた疑問を口にする。売れない物書きのアシスタントなど、していて何のためになるのかと。
「さあ。では聞きますけど、あなたはどうして物書きなんかしているんですか」
男はその声に、疑問と言うよりは確認といった響きを聞いた。胸に杭を打たれたような衝撃が走った。どこかに置いて忘れてきたものを、突き付けられた感覚だった。
男はやはり上を見上げたまま、答えた。
「何でだろうな。……って、やっぱ好きだから、かな」
「なら私もそういうことにしておきます」
少女も同じように、上を見上げた。
「お前、変わってるぞ」
「あなたほどではありません。……あ、見てください。流れ星ですよ」
彼女が指さした闇の中、白く美しい筋を残して、ゆっくりと星が燃え尽きていった。ずいぶんと長く出ていたので、多くの人が見たことだろう。
「へえ、久しぶりに見た」
男は自分でも我ながら子供っぽい、と思いながらも興奮していると、少女が言った。
「まるで先生のようでした」
「何だそれ。あ、落ちて消えるってことか!?」
「みんなに夢を与える事ができるという意味です」
「ほんとか? 台詞が棒読みだぞ」
「いつものことです」
男はそう言った少女が僅かに頬を緩めたように見えて、目をしばたたくと、またいつもの無表情に戻っていた。
「人の顔をじろじろ見ないでください。さ、寒いし帰りましょうか」
「ん、ああ。そうだな」
気のせいだよな、と言い聞かせて、男はそれ以上気にかけることはしなかった。二人は寒空の下、ぼろアパートへとのんびりした足取りで帰っていった。