ホーム > 小説 > リビング。 > リビング。3

 / 目次 / 

リビング。3

1月6日。

 早朝、スケートリンクみたいにつるっとした青空の下、リリィを連れて、近くの神社へ行った。少し遅いが、初詣というやつだ。時期が遅いのも、時間が早いのも、もちろん人が多いのを好まなかったためである。

 正月はとにかく引きこもっていた。久々に外に出たので、外の空気の冷たさに肌が驚いた。時折吹く風が針で刺すように鋭い。やや後ろを平然とついてくるリリィが何とも羨ましい。

 それらしい服でも着せてやれればいいのだが、何しろ幽霊に着せてやる服はない。いつも通り、どこのだかわからない学校の制服だ。もっとも、見てやれるのが僕だけなので、自己満足に過ぎないのだが。

 彼女にしてみれば外に出たのは二度目である。どんな感想を持っているのかうかがおうにも、表情の一つ変えてくれない。仕方のないことだ。いつも通りとも言える。

 幸いなのかどうなのか、ほとんど人には出会わなかった。もとより人が多く来る場所ではないし、だから選んだ。新年の慶びににぎわう神社と、冷たい風の吹き抜ける荒涼とした社では、趣が違う。生か死かと問えば、それは死だった。

 賽銭を投げて手を合わせる。眼を閉じても、願い事は浮かばなかった。

 ちらと目をやると、リリィは案の定というべきか、首をかしげて不思議そうに賽銭箱を眺めていた。
「ほら、リリィも神様にお願い事しな」
 手を合わせるように指導し、リリィはそっくり真似をする。ちょっとほほえましいと思う。反面、何かがズレているような違和感を覚えた。

 帰り道、彼女はやはり外の物に色々と興味を示した。この間ベランダの外にいたのも、外に出てみたかったのかもしれない。

 表情こそ変えないものの、彼女は楽しそうだった。それも錯覚だろう。ただ、その事と、僕の胸の内で、やはり何かがズレているのだ。熱湯と冷水がぴったりと背中合わせになっているような不可能性。水と油のように分離した浮遊感だった。

 僕は気を紛らそうと思ったのか、彼女に聞いた。
「リリィは何をお願いしたんだ?」
「……」
 ぼそりと何か言ったようだったが、僕には聞き取れなかった。ただ、何も願っていないわけではなかったようだ。反応はいつだって薄いが、リリィには明確な意思がある。それは、彼女が生きていると言うには十分だった。

 一方で、僕は願い事が最後まで見つからなかった。

 今思えば。二人の時間が長く続けばいいと願うだけでよかったのだ。

 それだけでいいのに、そんなことも思い当たらなかったのは、きっと僕がこんな異常な日常を当たり前のように錯覚していたからだろう。

 死んでいるのは、僕の方なのか。

2月10日。

 ベッドの上で、どうにか体を起こす。関節に油でも差さないと動きそうもないような感じだ。頭と体が切り離されているよう。ぼやける視界。否、靄[もや]がかかっているのは思考の方か。空気の冷たさを無視して、背中がじっとりと汗ばんでいた。喉がからからに渇いている。

 あの日が近づいていた。

 また夢を見た。以前よく見た夢。ある日から見なくなった夢。聞こえるのは女の押し殺すようなすすり泣き。見えるものは何もない。深い深い闇。僕は心を空っぽにして聞くしかない。それ以外では、自分に押しつぶされてしまうから。やがて声は小さくなる。子供がしゃくり上げるのと同じ息づかい。僕には何もできない。できなかった。それは言い訳だ。しなかったのだ。声は聞こえないほど落ちついた後。胸を穿つ悲鳴に変わる。

 そこで必ず目が覚める。残るのは恐怖でも不安でもない。罪だ。

 ぼうっとしていると、部屋には入らないよう言ってあるリリィが扉をすり抜けて顔を出した。今日に限って、何かを感じ取ったのだろうか。表情からは何もわからない。いつもの通り虚ろな赤い瞳をこちらに向けるだけだ。

 リリィが来てから、見なくなった夢。今さらだが、リリィが来た切っ掛けを思い出した。買ったのだった。そう、きっと寂しかったから。妹と同じ自殺者だったらしい彼女に、何かを感じて。うごかないはずの唇の片端が、引きつるように歪むのを自覚した。リリィは首をかしげて白い髪を揺らすだけだった。

 僕はあれを死だと認知している。あの夢がではない。闇がでもない。あの空白をだ。妹が何を思って命を絶ったのかはわからない。その何かに、同じ部屋に住んでいて気づかなかったのは他でもない僕だ。今思えば不審な点などいくらでもあげられる。当事では気がつけないこともあろう。言い訳などする気もない。僕はきっと、彼女と一緒に夢の中で死ぬことを、贖罪にでもしているつもりだったのだ。自分が生きている証を、全て夢の中に捨てていく。そうやって僕は毎日生きながら死んでいた。だから、あの空っぽは僕にとって死そのものでなくてはならなかった。

 けれどその習慣は途切れた。いつしか、ではない。はっきりと、あの日、リリィが来た日から。

 自分がくだらない生き物に思えた。自分を空っぽにしてしまった出来事を、すっかりそっちのけにしてしまえることが、情けなかった。
「どうかしたの」
 リリィの声にはっとする。声に心配そうな響きはない。いつも通りの真っ平ら。本当に感情らしいものが全くないのか、表現できないだけなのかはわからない。そんな声が、すっと胸に入ってくるのは、僕の方が空っぽだからだろうか。体中から力が抜けた気がした。

「なんでもない。おはよう、リリィ」
「おはよう」
 リリィの前では、なんでもないことになってしまうらしかった。

2月14日。

 聖バレンタインデーという日にとても共感を覚える。

 と同時に、ひどく虚しさを感じる。僕がひねくれているだけなのだけれども。

 多分、僕が中学校に入ったくらいの頃。今日は大好きな人にチョコをあげる日だ。そんなことを言って、妹がやけに苦いチョコレートをくれたのを思い出した。ありがとうと言って頭を撫でたら、子ども扱いしないでと怒られた。

 リリィと一緒にソファに並んで、リビングでぼうっとしていた。今日もあの夢を見たせいだろう。頭が難しいことを考えようとしない。テレビがチカチカするのを二人並んで凝視していた。

 女性が男性に恋を伝える日。

 恋人同士が語らう日。

 この国では、だ。チョコレートを送るのはどこかの製菓会社がでっち上げたものだけど、今さらそんなことに反感を覚えるわけでも、ましてやチョコを誰からももらえないひがみなんかでもない。僕は、この日がとても美しいと思う。

 バレンタインデーは聖人が殉教した日だ。

 死を恐れずに結婚式を取り持った聖人が死んだ日。

 あの世での幸せを願う日。

 愛と死とを取り替えた日だ。

 身震いがした。背骨の代わりに氷柱を埋め込んだような寒け。それを、悦楽として受け入れた。

 リリィは虚ろにテレビを眺めている。僕は虚ろにそれを眺めている。

 それだけでいい。他に何もいらなかった。それはいとおしさに似ていた。

 妹は死してなお僕の中に居続ける。夜ごとに僕の中身を空っぽにしていく。妹がいつまでも僕の中に住み着いていられるように。

 テレビから流れる意味も価値もない雑音が、胸のどこか深いところに響いて抜けていく。そうして見つけるガランドウ。この空白が死だとしたら、リリィもきっとこうしてテレビを楽しんでいるのだろう。勝手にそんな風に決めつけた。自己満足の他者理解。指先まで冷たい震えが走った。それは愛に似ている。ただ並んでテレビを眺めていた。

 愛と死の等価を認めた日。

 今日は、妹の命日だ。

4月5日。

 相変わらず僕はあの夢を見ている。夢の中で死に、朝には昨日までの僕をリセットして空っぽのまま過ごし、そうして夜にまた死ぬ。

 だから僕は、この世に幸せというものがあるならば、それには手が届かないままで生きていくのだろう。幸福とはささやかな喜びの積み重ねだ。日々を蓄積しないで生きる僕にとって、それは縁遠いものであった。

 それが妹の幸せを奪った僕への罰だった。せめてもの贖罪のつもりで、僕の無意識はそれをやめたことはない。今までは。

 そうだと思っていた。事実、僕は今までそうだった。
「おはよう」
 リビングのソファに腰掛ける、希薄なくせに目につく存在感。音もなく移動し、滅多なことでは話すことなく、手を触れあうこともできないその少女が、真実僕にとって日常から排斥できない存在に昇華していた。僕はおはようとだけ返した。

 夢を見なくなったのはリリィが来てからだ。それからまた夢を見るようになるまで、僕は妹の事を忘れていたわけではない。なのに、僕は夢を見ずに生きていられた。それは、せめてその間、幸せになる権利があったということを意味するのだろうか。

 そろそろ長い休みが終わって、大学へ通う単調な毎日が戻ってくる。ここしばらくリリィと一日中家にいることが普通になっていた。いわゆる休み惚けだ。この『リビング』から離れるということに、僕は不安に似た何かが胸につかえた感じを覚えていた。今日は学校で健康診断があるから出かけなければならなかった。
「じゃあリリィ、テレビつけとくから、留守番よろしく」
 もっとも、誰にも彼女の姿は見えないのだから留守番になど到底ならないが。挨拶だけは一人前なリリィとの暗黙の取り決めというか、儀式めいた言葉だった。

 けれどその日のリリィはいつもと違った。いつもなら淡泊に「いってらっしゃい」とだけ言うところだが、今日は僕の後を追って玄関までついてくる。その様子を見ていると、リリィは虚ろな瞳でただ僕を見つめ返す。僕は何を思ったのか。

「すぐ帰るよ。だから――」
 だから、何だというのか。その先の言葉は結局出ることはなかった。代わりに、思いがけず頬が緩んだ。笑うなどいつ以来だろう。言いかけた笑顔と等価の言葉とはなんだったのだろう。その先の考えは及ばなかった。リリィはうなずいてくれた。それから、
「いってらっしゃい」
 いつもと同じ調子で、そう言った。
「いってきます」
 帰る場所があるからこその言の葉が、ごく自然に紡がれる。何か暖かいものが胸の内にこみ上げていく。

 幸せになる権利など、僕にはないというのに。

5月16日。

 二年目の学校は以前よりも居心地がよい。

 既に「付き合いの悪いやつ」というイメージが定着したからだろう、僕にわざわざ話しかけるやつも減ったし、自身環境になれてきたこともある。講義室に差し込む陽光は、ゾンビのように生きてきた僕にさえ見境なく柔らかい。この頃はすごしやすい気候が続いているし、僕にとって苦痛にあたるものは何もなかった。

 あるとすれば、それは生活の中にではない。唯一僕を苦しめるのは夜ごとに僕をいざなうあの闇だけだ。思い出すとにじむように心を浸食していく。黒い絵の具と同じだ。こぼしたコーヒーに似ている。思考が虫食いになっていく。もはや講義はお経と大差ない。そうして一日はベルトコンベアのように過ぎていく。

 長くなってきた日の、既に暮れる頃。帰ってきたリビングにはいつもの通り彼女がいる。
「おかえり」
「ただいま」
 交わす言葉はレスポンデント。意味のない言葉とリリィの顔との対提示が引き起こす条件反射。僕は虚ろだった。

 夕食後、並んでテレビを見ていると、僕の顔をリリィが覗き込んできているのに気がついた。テレビからは興味をなくしたらしい。何か言いたいことがあるときの様子に似ているのでどうかしたのと聞いても、リリィは黙って首を振る。僕は呆けたままテレビを見ていた。

 次第に僕もテレビに飽きて、部屋へと戻ろうとする。リリィはすうっと音を立てずついてきた。部屋に入ってからもリリィは僕が手にするものや目を向けるものに逐一興味を持った。本を開けば覗き込むようにして僕の背中から顔を出し、時折透ける手で触れようとし、すり抜ける。水の中で動くような緩慢さは、どこかあどけないようで、不思議な動作だ。表情はちっとも変わらないのに。

 僕がつい頬を緩めると、彼女もうれしそうに(無表情なので僕の錯覚に過ぎないが)顔を合わせようとする。そうしてまた子供が構って欲しそうにするように、僕にちょっかいを出す。

 リリィの行動はオペラントだ。

5月25日。

 古典的条件付け。レスポンデント条件付け、とも。

 与えられた刺激に対して、非積極的な条件反射が成立すること。パブロフの犬の例が有名。

 刺激の対提示によって刺激間に連合が起こり、反応が変容すること。パブロフの犬の例では、犬に餌をやる前にベルを鳴らすという刺激を提示し続けた結果、ベルを鳴らすだけで犬が唾液を分泌する反応を示すようになった。

 オペラント条件付け。

 ある行動が生じた直後の環境の変化に応じて、その行動の生起確率が変容すること。実験室的な実験の例では、ラットが(初めは偶発的に)レバーを押す反応に対して、餌を与えるといった環境の変化(この場合は報酬)が繰り返し起きることで、ラットはレバー押しを繰り返すようになる、など。

 オペラントとはこれを定式化したバラス・スキナーによる造語であり、個体の自発的な行動である点がレスポンデントと異なる。

 リリィは僕の試験勉強にはたいして興味を示さないらしかった。無理もない。

続きを読む。

 / 目次 /