リビング。4
6月11日。
今年は空梅雨らしい。もとより湿気た天気は好きではないが、この時期ちっとも雨が降らないというのは不思議と落ち着かなかった。
6月には雨が降り、7月には暑くなり、8月にはセミが歌い、9月にはまだ暑いですねと言い合う。10月には虫が鳴き始め、11月には行き交う人の袖が厚くなり、12月には白や赤の電飾が街を照らす。1月にはたいてい雪が降るものだ。
大学から帰り、疲れた顔をしているだろう僕をリリィが出迎える。一緒に、といっても彼女は座っているだけだが、夕食をとり、そのあとは並んでテレビを見る。ちっともあたらない天気予報が明日も晴れだと告げていた。リビングは今日も昨日と同じ。きっと明日も同じだ。
夜が更けていくと僕は部屋に戻る。リリィを連れて。
この習慣は比較的新しい。いつからかそうなったようにリリィは僕にまとわりついて、いつしか部屋から離れようとしなくなった。僕は朝までそのまま彼女をいさせることにした。特に困りはしない。
朝目覚めると彼女の顔をすぐ見られるというのは僕にとって都合が良かったのだ。すぐ側にいてもシャンプーの匂いはしないし手を握ったりすることもない。けれど、毎夜見る夢のために、彼女の顔を見ながら眠ることと、目覚めて彼女と挨拶することは、意味のないことではなかった。
それにしても、リリィは睡眠を必要とするのだろうか。同じ部屋で夜を過ごすようになってからもそれはわかっていない。いや、わかる必要もないし、そのことに気付くことさえ無意味だ。僕は落ちていくように、すぐに眠ってしまうだけだから。
6月19日。
目覚めは最悪だった。
今日も『同じ』だと思っていた。背中をナメクジが這うように汗が伝っている。大きく息を吐くと、絞り出される肺の中の気体が高く熱せられているのに気付いた。頭蓋が軋む音を立てる錯覚を感じた。
「どうかしたの」
リリィが気配もなく顔をよせて尋ねる。僕は「夢だ」とだけ答えた。それ以上の余裕はなかった。
「くるしそうね」
リリィはそう言った。
その声には少しだけ心配するような調子が混じっているように聞こえた。僕が参っていたから故の錯覚だろう。顔を上げると、相変わらず平坦な表情をしていた。
初めて、夢の中の『すすり泣き』が『声』となった。遠くからおぼろげに聞こえてくるようで、その実自分の内側から響いてくるようでもある。何を言っているかは聴き取れなかった。否、聞いた僕はいつもの通り「死」んだのだ。聞いた言葉は闇の中に置いてきた。
そして目覚め、リリィと挨拶をして、普段通りに一日だけ生きる。今日も変わらない。変化はない。
「おはよ」
そう考えて言った。けれど彼女は、今日に限って返事をしなかった。代わりに見上げるように僕の瞳を覗き込んでくる。ルビーの瞳はどこまでも奥深くて、血の池を覗き込めばこんな色をしているのだろうと連想した。
この日、僕は大学を休んだ。
6月20日。
どうやら僕は風邪をこじらせたらしい。倦怠感がとれず、頭痛はしっぱなしで、腹の調子が悪い。ここ最近体調を崩すことなどなかったのだが。
今はベッドに寝転がっている。だが、眠りはしない。眠れなかった。夢を見るかもしれないからだ。僕はあの夢への墜落を恐れている。
昨日は一日中部屋でじっとしていた。闇はうたた寝の隙にもやってきた。これまでは夜眠るときにしか見なかった夢だ。一日休息をとって身体はだいぶ良くなった。だが今朝再び悪夢に叩き起こされたときには、また気分は最悪の状態に戻っていた。
リリィは大人しかった。もともと自分から話したりはあまりしないが、ここ最近は口数が多くなっていた。けれど、病人の前では静かにしていなければ、ということがわかっているようだった。初めの頃の彼女はどんな様子だっただろうか。ふと思い出そうとして、やめた。
リリィはずっと僕と一緒に部屋にいた。お気に入りのリビングの、お気に入りのソファに座って、お気に入りのテレビを見る彼女ではない。普段と違うことだらけの今、それがもっとも僕を落ち着かない気分にさせた。だから僕は起きあがる。
「いいの」
彼女が一度に紡ぐ単語は少ない。起きていいの、という意味だと解釈した。もとより、今は眠った方が酷くなりそうだ。うん、と平気なところを見せようとして、笑い方がわからなくてやめた。
ソファに座る。テレビをつけた。目では見ているが、頭は番組の内容を理解しない。僕は安心感を覚える。彼女のリビングに戻ってきた。彼女がリビングに戻ってきたのだ。
四角い箱の中で、ニュースキャスターが何か喋っている。どこかで起きた事件の話だ。どこかで誰かが死んだという話。こことは遠い別の世界の話。おとぎ話と同じだ。
リリィはじっと見ていた。聞いていた。彼女には、表出しないだけで知性があり、感性がある。それは彼女と一緒に時間を過ごしているうちにわかってきていたことだ。けれど、僕はリリィの口にした次の言葉に、ただ呆気にとられるしかなかった。
「死ぬってなに」
死人が何を言うか。
僕は答えた。
「――――――――――――」
「なら、わたしは」
リリィは言いかけて、口をつぐんだ。何を言おうとしたのかはわからない。僕はそれ以上聞くこともしなかった。
6月22日。
死とは。
生命活動が停止すること。
違う。
いなくなること。
違う。
忘れ去られること。
違う。
適切な説明が思い浮かばないので、僕は考えるのをやめた。
それはきっと僕の考える『死』に非常に近い。でも言葉にはできなかった。
7月16日。
目を開けると何も見えなかった。目を開いても閉じても変わらない。見えなかったのではなく、何も『無い』のだと気付いたとき、僕はそれがいつもの夢だと知った。
僕は全身の力を抜いて、何も考えないようにする。それがここのルールだ。僕はここですべてを空っぽにしなければならない。すべてをこの中に置いてきて、また朝を迎えなくてはならない。
少女のすすり泣く声が聞こえてくる。僕が妹だと認識している少女。彼女への申し訳なさが泡のように浮かんで、弾けて消えるように、それをもまた捨てた。
一ヶ月ほど前から聞こえ始めた声はもはや聴き取れそうなほど近づいていた。けれど意味のないことだ。聞いた言葉はどこか胸のあたりに空いた穴から放出し棄てられる。
死とは。死とは、放棄すること。何ものをも捨て去ることになることだ。
僕がリリィに答えた言葉だった。言葉が足りているとは思わない。それ以外に答えが浮かばなかっただけだ。
リリィ。
リリィは納得したろうか。あの後言いかけた言葉は何だったのか。今度はもう少し難しい話をしよう。彼女はきっと理解する。そういえば半年以上彼女を外に連れて行っていないな。夏休みにはまたどこかへ連れ出してみよう。今度は泊まりがけで。きっと喜ぶ。
空っぽが埋められていく。捨てるために栓を抜いた僕の身体に逆流して入ってくるものがある。それにつれて、聞こえる声が形をはっきりとさせていく。ルール違反だ。
「……さん」
『声』が呼んでいる。懐かしい声が。
何もかも捨てゆくはずの僕が声を聞いている。
「兄さん」
その声がはっきりと聞こえたとき、何もなかった真っ暗の向こう側に、おぼろげな人影が見えた気がした。背中を向けていた。それが誰なのか確かめようなどとは思わなかった。
「兄さんは……」
――ああ、僕は。
捨てきれなかったんだ。捨てたくないと願ってしまった。
「私の代わりを見つけたのね」
声は寂しそうにも聞こえたし、穏やかな響きも含んでいた。
夢を見ているような、熱に浮かされたような声だった。
それは嫉妬か、または安堵に似ていた。
*
『妹』が僕に語りかけたあの夢から覚めたとき、リリィは僕にまたがるようにして僕の顔を覗き込んでいた。うなされていたのかもしれない。僕は何でもないふうに言った。
「おはよう、リリィ」
「おはよう」
リリィも何でもないふうに挨拶を返した。けれど、彼女は思った以上に鋭いようだ。
「きょうは」
「何?」
「気分がよさそうなのね」
僕は唖然としてしまっていた。今日は、ということは普段から気にかけてくれていたのだろう。そんなどうでもいいことが、何だかうれしくなって、僕は彼女を見つめ返す。微笑み方を思い出した。
「心配してくれてたの?」
リリィは何も答えないし、うなずきもしない。代わりに首を傾げる。絹糸のような白い髪がさらりと流れる。あどけない顔立ちが余計幼く見える。
ああ、今日もいつも通りだ。目覚めのコーヒーを入れようと部屋を出て、向かう。
僕らのリビングへ。
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