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リビング。2

11月16日。

 かじかむ手をポケットに突っ込んだまま、暗い夜を歩く。街灯に蛾がたかっているのも、褐色の落ち葉が風に巻かれて円を描くのも、寂寥の付きまとう、この季節らしさだ。つまらない学校からの帰路、吐いた息が僅かに白く曇る夜、僕は彼女のリビングへと急ぐ。

 家に帰るのではない。

 リビングへと帰るのだ。

 リビングはもはや僕にとって生活の全てだった。

 急ぐ理由などない。

 ただ、この寒く寂しくつまらなくむなしい世界から早く、あのぬくもりへ溶け込みたい。この死んだような街から逃げ出したい。

 半分の月が冴え冴えと帰路を照らしていた。その月光の冷たさ無骨さは、木枯らしを連れた夜気に似ていた。

「おかえり」
「ただいま、リリィ」
 もう日課となった、挨拶。

 毎日交わされても飽きることのないこの言葉には、どんな魔力がこめられているのだろう。

 同じことを無限に繰り返す日常はこんなにもつまらないのに。

 同じ言葉を毎日繰り返す、この瞬間に感じる胸の暖かさ、充足は、今や何にも代え難かった。僕の生活は彼女と彼女のリビングに支えられている。

 相変わらずリリィはテレビばかり見ていた。

 ソファに微動だにせず座っている。細く儚げなライン、絹糸を梳ったような白い髪が下がる。それは、一輪の花を連想させる。

 彼女の隣に腰掛け、四角い箱の中で握手を交わす日米両首脳の笑顔を眺めてみた。それは外の世界の出来事。このリビングの外の出来事だ。

 途端、彼女はじっと、虚ろなあの赤い瞳で、自分の手のひらを眺めていた。

 ぐー、ぱーと二秒に一度くらいのペースでゆっくり繰り返し、何度かそうしていると、やはり首をかしげた。

 握手に興味が湧いたのだろうか。よくわからない仕草だったが、何だか可愛らしいので放っておくと、壊れた人形みたいに、ずっとずっと同じ動作を飽きもせず続けていた。

11月17日。

 僕はリリィを外に連れ出した。

 例のサイトでは禁止行為の項目の、割と目立つところに載っていた大事だ。だが、知ったことではなかった。どうせ彼女の姿は誰にも見えない。見えるとすれば、山で修行でも積んだ霊能者か、僕と同じ立場の人間くらいのものだ。前者はともかく、後者に文句は言わせまい。

 コートの上からでも肌を刺す冷気に、ガラスか氷を思わせる透き通った蒼穹が、寒々しかった。人混みの中を歩いていくと、僕の左後ろ当たりを、ちょうどスケートでも滑るかのようにすうっとリリィがついてくる。肩を縮めてそそくさと歩く通行人にぶつかるたびに、行き交う人もおかまいなしですり抜けていく彼女を少し羨ましく思った。

 今日は僕の誕生日だった。

 祝ってくれる人はいない。そんなことはどうでもよかったはずだが、彼女とリビングにいると無性に「特別な日」でありたいと思った。それで、後先考えず彼女を連れて外へ飛び出した。

 彼女は最初は戸惑っていたのか、いつもの平坦な声で「なに?」とか聞くばかりだったが、外をしばらく歩いていると、いろいろなものに興味を示した。

 あれはなに、これはなに、といつもの彼女からは想像できないほど、一言一言はやはり短いが、よく自分から話した。

 あれだけテレビに興味を示したのも、彼女にしてみれば常に新しい世界に訪れるような大冒険の気分がしていたのかもしれない。

 人混みの喧噪の中なので、独り言をしても気にとめる人はいないだろうと、僕は彼女の問いに答えていく。
「あれはなに?」
「あれはこの街から出た歌手の銅像」
「あれは?」
「あれは似てるけどただのおっさん。ちょっとはげてる」
「あれは?」
 彼女が何度目かに指さしたのは、僕と同年代くらいの、仲睦まじげなカップルだった。手を繋いで、のろのろと歩いている。

 なんと答えたものか、リリィの方を見ると、しきりに右手を顔の前でぐー、ぱーと握ったり開いたりしていた。どこかで見た仕草だと思ったら、昨日テレビの前でしていたのと同じだ。確か、日本の首相と米大統領が握手をしていたとき。
「仲がいいと、手を繋ぐものなの」
 僕はそんな風に答えた。彼女はしばらく考えている様子で首をかしげて、それから、右手を僕の左手の辺りに伸ばした。そしてやはりぐーぱーを繰り返す。すーすーすり抜けて、今さらながら不協和を感じた。

 手を繋ぎたいのだろうか、と思い当たって、左手を形だけ手を繋いでいるようにしてやる。すると、リリィもそれに合わせるように手の表情を変えた。一瞬、直に氷を掴んだような、感触が走って、木枯らしに吹かれて消えた。

 僕が歩くのにあわせて腕を振ると、その度に彼女の手がすり抜けて、何とも言えない滑稽さがあった。そうして歩いているうちに、左手だけあまり動かないように注意して歩くのと、彼女がぎこちなく腕を前後に振るのが、段々と波長が合い始める。

 僕たちは手を繋いで歩いた。冷たい手だった。

 何をするでもなく、寒空の下散歩をしただけで、僕たちは日が暮れる前にリビングへ帰ってきた。

 彼女は相変わらずの無表情だ。彼女にしてみれば大事件だった可能性もあるだけに、何となく気になって、聞いた。
「どうだった?」
 何もしていないのだし、どうも何もないのだが、彼女はこの問いには首をかしげなかった。

「あたたかかった」
 答えは、さっぱりわけがわからなかった。

11月26日。

 ここの所、リリィの様子が少しおかしい。

 ここの所というのは、まぎれもなく、僕が彼女を外へ連れ出したときから、と言い換えて差し支えない。あの日から、目に見えて、というほどではないが、違和感を覚えるようになった。

 食卓で遅い朝食をとっていた。

 寝ぼけ眼でテレビのニュースを聞きながら、ジャムを塗りたくったトーストを囓る。リリィは向かいに座っていた。いつもならテレビから目を離さないところだが、今日は僕がコーヒーを飲むのを眺めたり、別のものを見ていることが増えた。

 ここ数日観察していた成果によると、共通点とは言えないまでも、基準みたいなものがあるらしいということがわかった。

 どうやら、彼女が興味を持ったものと持たなかったもの、という違いらしい。たとえばクイズ番組は見ないが、芸人の出ているバラエティーは見る。ニュースでは芸能ネタは見ないが事件の報道などには注目している。

 これは大きな変化に思えた。彼女は笑うことも泣くことも怒ることもしない。けれど、好き嫌いがあるのだろうということはわかった。ひょっとしたら、希薄に見える感情も、表現の仕方を知らないだけなのかもしれない。

 彼女もぼうとしているように見えて、毎日このリビングで何かを考えているのだろうか。ただ、それが答えに行き着いたとしても、それを表に出すことはできない。だとすればまったく無為だ。否、そもそも死者は無為だ。けれど、リリィは死んではいるけれど、確かに生きていた。

 二枚目のトーストをやっつけながら、テレビの報道に耳を傾ける。リリィも興味を持ったらしかった。
『……今日未明……で変死体が発見されました。警察は一連の事件と関連があると見て捜査を………………』
 僕もリリィも、しばしテレビに釘付けになった。
「あれ」
 リリィも気づいて、画面に向かって指をさした。その先には、この間見た歌手の銅像があった。

 事件は、僕たちがこの間歩いた街で起きていた。箱の中で鉄筋コンクリートの森と人の群れと例のおっさんの銅像を背景に、リポーターが何やら喋っている。

「何か物騒だな。って、リリィには関係ないか」
 リリィは首をかしげた。ニュースの話題が切り替わるなり、視線を戻して、やはり虚ろな赤い瞳で僕を見ていた。

12月11日。

 もう、かなり寒くなった。今日など雪でも降るのではないかという冷え込みだ。時折風が窓をがたがたと揺らす音が、身体を芯から冷やすよう。

 こんな日は家に閉じこもっているにかぎる。せっかくの日曜日、一日寝ていようかと思う。だが目が覚めて時計を見れば、針が平日電車に乗る時刻と大差ない数字を指していたのだ。今まで休日になると寝てばかりいたのだが、今日はなぜだか平日の習慣が適用されたらしい。

 そうして早起きしてしまった僕は、とりあえずテレビをつける。

 これまた、習慣だ。もはや憑かれたように、同じことをしてしまう。あながち、憑かれているというのは、間違ってはいないのだけれど。

「おはよう」
「おはよ」
 平坦な声に、挨拶を返すのも、また習慣。日常とは、つまるところ同じことを繰り返すことを言う。
「リリィはいいね、寒いとか、関係ないんだろ」
 彼女はいつものように首をかしげて、不純物のない澄んだルビーの瞳で僕を見る。それを、ほほえましいと思う。以前の僕からは、考えられないことだ。

 ガスヒーターのスイッチを入れて、次にやかんを火にかける。朝はとりあえず眠気覚ましにインスタントコーヒーを飲むことにしている。思考が段々クリアになってくると、テレビの音が耳に入ってきた。

 どうやら、二週間くらい前にニュースで見た殺人事件の関連だ。まだ犯人が見つかっていないそうだ。もう毎日こればっかりやっている。

 というのも、被害者はこれで四人目というのだから、無理はない。うちから近いというほどでもないが、交通の要所であるためによく利用する駅の近くだ。

 アナウンサーの声が、少しずつ暖まってきたリビングに響く。何だかテレビの中の世界が、こことは別世界のように感じた。ひどく遠い場所を眺めるような目で、僕はテレビを見ていた。

12月23日。

 刺すような陽光で目を覚ました。

 日本海側は大雪とのことだったが、この辺りは今の時期雪が降ることなんてほとんど無い。雲一つない青空だった。かといって、外が寒いのはかわりなく、外にはよっぽどの用事がなければ出たくない。この間から大学は冬休みに入って、生活はだれる一方だ。今も、徐々にクリアになる意識で確認すると、すでに時計は十二時をまわっていた。

 今日はいつもと様子が少し違った。

 リビングに、リリィの姿がない。テレビが付いていない時でも、だいたいこのソファに座っているものだったが、今日はいない。

 ひとまずベランダのカーテンを開ける。一日で一番眩しい太陽の光が飛び込んで、視界がくらんだ。そして気づいた。

 ベランダの外、一面の蒼穹を背景に、一人の少女が浮いていた。どこかで見た光景だった。

 風向きとは関係なしにふわりふわりと揺れる、腰まで伸びた白髪は、翼を連想させた。血のように赤い眼光が僕を射抜く。張り付いた無表情は、その白さと合わせて、石こうの像そのものだ。身動きができなかった。背骨に氷柱を埋め込んだような寒けが襲った。

 どれだけの時間が経ったか、わからない。やがて、ゆっくりとこちらに向かって降りてきた。凍り付いた時計が動き出す。

 ベランダのガラスをすり抜けて、彼女は僕の目の前に、ため息のように舞い降りた。そして小さな口を開けて言う。
「おはよう」

「え? あ、おはよ」
 それはやはり普段通りだった。少し拍子抜けに似た心持ちになる。静かすぎて心臓の音が聞こえた。

 今のは何だったのだろう。毎日見ていたはずのリリィに、何を覚えたのか。

 リリィはリリィで首をかしげて、上目遣いにこちらの瞳を覗き込む。さっきのような寒けは感じない。

 いつも通りのリビングだった。

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