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リビング。1

10月9日。

 闇の中で聞こえた女の悲鳴が、鳥のさえずりに変わって、夢からはい上がった。喉でも潤そうと立ち上がり、まずベランダのカーテンを開けると、まだ青と言うには早い瑠璃の空を背景に、一人の女がいた。

 顔立ちは幼く、女というよりは少女と言うべきだろうか。どこぞの学校の制服らしき服を着ている。揺れる白い髪が腰まで伸びた姿は、神秘的ですらあった。

 何より不思議なのは、ここが団地の五階であるということだった。

 少女はふわりふわりと浮いていた。目をむいて、思わず窓を開ける。早秋かつ早朝、冷たい空気が吹き込んで、肌を刺した。

 少女は首をかしげて、あどけない様子、赤い瞳でこちらを見つめてきた。目が合ってもそらさず、表情一つ変えなかった。そこで僕はようやく状況を理解した。

 今の時代、ネットで何だって買うことができる。日用品を買う感覚で偽造パスポートから輸入物のメイド、月の土地まで広く深く商品を物色できる。

 注文からちょうど二週間、間違いないようだ。僕が買ったのは幽霊だった。まず一週間前に、謎の薬品が届いた。取説によると、何でも幽霊は誰にでも視えるものではないので、その才能を開かせてやらねばならないという。クスリで見えないものが視えるようになる、というのは、実にそっち系のクスリっぽいが、かまいやしなかった。

 この手のサイトを見つけたのは全くの偶然だった。僕はさして社会正義などというものは信じていないけれど、さすがに嫌悪感を覚えた。けれど、怖いもの見たさというか、禁忌故に禁じ得ない好奇がページを進めていった。

 メインの商品はゾンビだった。ゾンビの方が需要が圧倒的であり、値段の桁がいくつも違う。また、若い女性の商品の方が高価、ということとあわせて、この商売がいわゆる死姦という醜悪かつ恐らく強靱な地盤に支えられているのだろうことが伺える。

 ただ、どうせ側に置いておくなら見目のよい方がいいという点は賛成だ。

 カタログを見ていると、一人の少女が目にとまった。というよりは、紹介記事に目を奪われた。理由は簡単だ。

 少女は自殺者だったそうだ。

 僕の妹も、少し前に自殺した。以前は二人で住んでいたこの居間の光景が寂しくて、きっと惹かれたのだろう。僕は、ほとんど無意識のままに購入手続きを済ませていた。学生の僕にとっては本来痛い出費だが、どうせ使い道もないので、後悔もしていない。

 日曜日だから学校は休みだ。けれど、早く起きたのは存外無意味でもなかったと言うことになる。僕はこっちへおいで、とふわふわ浮いている少女に手招きした。少女がこちらを見つめ直す。心臓が一度大きく跳ねた。どこか虚ろな、澄んだ赤色が、血の色に似ていた。手も足も細く、白を通り越して青白い肌が、空の瑠璃色を映していた。

 やがて理解したのか、ゆっくりと部屋の中へ、ふわりと飛び込んできた。目の前までやってきて立ち止まり(浮き止まり?)、スカートの裾を軽くつまんで持ち上げて、全く場違いな会釈をした。

 そして小さく口を開いて、

「おかいあげありがとうございます」

 鈴がなるように可愛らしい、しかし抑揚のない声でそう言った。

10月10日。

 僕は彼女に「リリィ」と名付けた。白い髪、しおらしい佇まいで、あどけなく首をかしげた姿が、ユリのようだったからだ。案外、彼女は首つりで死んだのかもしれない。

 生前の記憶の有無や、理性の復元などは商品によって個体差があるらしい。リリィの場合、記憶は一切なく、感情は希薄、簡単な言葉を交わす程度の理性は復元されている。彼女はいわゆる安物だった。ちなみにゾンビよりも知能レベルが高いのが幽霊の長所だそうだ。

 もっとも、知能がいくら高かろうが、お手伝いを頼めるとかそういうことはない。例えば料理を作ろうにも材料や道具に触れることができない。幽霊の需要がちっともないというのも頷ける。

 ま、ゾンビにしても動きが緩慢なせいで使い物にならないということだが。

 リリィは取り憑いたように僕についてまわった。今日は体育の日とやらで学校は休みだ。一日家でくつろいでいたのだが、僕が移動するたびに後ろにぴったりとくっついてきた。体を前傾して、すうっと音も立てずに移動するのが普通らしい。視線を向けると、赤く幼い光を湛えた瞳で見つめ返して、首を傾ける。トイレに入ったときまで、ドアをすり抜けて入ってこようとしたので、慌てて制止した。

 僕が読書をしているときも、彼女はすぐ後ろで何をするでもなく突っ立っていた。何だか落ち着かなくて、どうしてくっついてくるのか、という意味のことを問うと、真っ平らな声でこう答えた。

「おいでっていったから」
 言ってない。
「いつ?」
「きのう」
 言った。

 昨日、彼女がうちへやってきたとき、ベランダの外にふわふわ浮いていた彼女にこっちへおいで、と声をかけた。詳しく確認したが、その時の「おいで」のことらしい。

 あれがその時だけの言葉であったと説明するのに、大変な時間をかけた。

 知能レベルは、とても高いとは思えない。

10月11日。

 大学というのは退屈なところだ。ちゃらちゃら遊んでいる分には楽しい場所なのだろうが、僕は騒ぐのは嫌いだし、酒が入らないと付き合えない友人なら要らないと思っている。

 いわゆる冷めた奴だ。つまらない奴と言ってもいい。そういう人間はだいたい、自分でも自分や自分を取り巻く環境そのものをつまらないと思っている。

 窮屈な帰りの電車の中で、疲労困憊した中年男の臭いと、手遅れなファンデーションをぷんぷんさせたおばさんとおばあさんの中間生物の臭いを鬱陶しく思う。車内のディスプレイで延々繰り返されるのだろう無音のコマーシャルを眺めていると、電車の揺れの単調さが余計に増した。

 駅から徒歩五分、それなりにいい環境に住んでいる。家に着くまでの間、ようやく姿を見せた秋に尻尾を向けた夏が、名残惜しそうに虫の声をあげているのを聞いていた。暗くなってくると、さすがに涼しくなっている。空に星はなく、代わりに街灯が眠らぬ夜を照らしていた。

 鍵を開けて、家に入る。真っ暗な居間に手探りで辿り着いて、明かりをつけた。冷え冷えとした体が、

「おかえり」

 途端に暖まる気がした。

 リビングのソファに腰掛けた体勢のまま首だけをこちらに向けて、リリィが言った。相変わらずの無表情と、抑揚のない声だ。
「ただいま」
 声が穏やかになっているのを自覚する。帰った家で挨拶があるなど久々だった。

 リリィを見やる。何をするでもなく、ソファに腰掛けている。と言っても、実際にはそう見えて浮いているのかもしれない。ソファが人の重さに沈んでいる様子は全くない。

 彼女は基本的にモノに触れることができない。家に取り残されて(おまけにちっとも考えが及ばなくて電気は消えたまま)、退屈しなかったかと聞くと、頭にクエスチョンマークを乗っけた顔で首をかしげた。

 不思議なのはこっちの方なのだけれど。

10月13日。

 リリィには食費がかからない。薄暗い居間で、帰宅したばかりの僕が食事の準備を終えて食卓につくと、どこからか(今日は壁の中からだった)やってきた彼女が僕の向かいの椅子の前で立ちどまって、首を傾けた。

 いつも通りの無表情だが、瞳の中に何かを訴えかけるような輝きを感じた気がした。僕が足で椅子を押してやると、座るスペースができて、彼女はそこに座った。その際、引いた椅子が彼女の体にめり込んでいた、とか、座っているように見えて浮いているだけなのだろうか、等といった事柄は無視する。

 行儀はとてもよかった。服装も、着ているどこぞの制服は今時の女の子にしてはスカートが長くて、いわゆるお嬢様校にでも通っていたのだろうかと思わせる。調べればどこのだかすぐにわかってしまいそうだが、あえてそれはしていない。見た目は幼いので、中学生だろうか、くらいの推察をしてみた程度だ。

 座ったからといって何かを食べるわけでもなく、じっと僕が食べているのを見ているだけだ。
「何か珍しいか?」
 何だか自分の家なのに居心地が悪くて、少しだけ無愛想な調子で尋ねる。彼女はゆっくりと首を横に振った。
「じゃあ、何か楽しいのか?」
 その問いに、今度は首をカックンと縦に振る。よくわからないが、彼女が楽しいのなら咎めるのも筋違いだと思う。

 食べ終わるまでずっと、二つの燃えるような瞳が僕に向けられていた。やはり居心地は悪いが、顔を上げると彼女がこちらの目を覗き込んできて、何だかもやもやした気持ちになって顔を下ろしてしまう。腹の中に、わたがつまったような感覚だ。実際に体験したことはないけれども。

 結局幾度となくそれを繰り返し、食事を終えた。

 もやもやの正体は不明のままだ。明日以降の課題としよう。

10月16日。

 ベランダに叩きつける雨の音で目を覚ますと、リリィが窓越しに灰色の空を眺めていた。寝ぼけ眼に、後ろ姿のシルエットは細く、儚げな印象がある。

 起きあがって、隣まで歩いていく。体が重い。日曜なのだからあと二、三時間は寝かせてくれと体が悲鳴をあげていた。

「おはよう」
「おはよう」
 どちらが言うのが先か、挨拶がかわされる。彼女は挨拶に対する反応だけは早い。リリィは一度こちらを見たが、すぐに窓の外に目をやった。なんとなく、僕は何かあるのか訊いてみた。

「あめ」
 ……幼児が意味もなく目にした物の名称を発声するのに似ている。僕は、うん、雨だ、とだけ言った。

 リリィは我が家の居間がお気に入りのようだ。昼になって雨が上がってしまうと(それまでずっと眺めていたようだ)、外への興味は失って、居間のソファに腰掛けていた。

 僕がテレビをつけると、彼女は食い入るように見ていた。あまりに熱心なので、イタズラ心にリモコンで電源を落としてやると、首だけで振り向いて、張り付いた無表情で見つめてくる。電源を入れると、くるりとまたテレビの方を向く。

 何だかその様子が可愛らしくて、あるいは自分がリモコンで彼女を操作しているみたいで楽しかったのか、何度か繰り返してみた。消さないで、という意思表示は、六度目でようやく言葉になって彼女の口から出た。
「いじわる」
 僕は心臓がわしづかみにされたような感覚がして、次に頬がにやけた。

10月20日。

 鉄製のドアを開ける。今までは静かで深い闇が出迎えたものだが、最近はというと事情が違う。

 ドアを開けると、居間から明かりと、テレビの音が玄関まで届く。暖房などつけていないけれど、もうすっかり冷えた秋の夜気とは違う暖かな空気に、玄関を境に変わっている気がする。

「おかえり」
 居間へ一歩足を踏み入れるなり、テレビから目を離して、リリィが言った。テレビを見ているときはかなり集中しているように見えるので、これほど反応が早いと少し驚きもする。僕も、ただいま、と挨拶をした。

 彼女のお気に入りのリビングは、より一層彼女のお気に入りになった。

 やたらとテレビが気に入った様子で、僕は家を出る前に照明とテレビをつけっぱなしにすることにした。すると、どうやら日がな一日ソファに座ってテレビを見ているらしい。おかげで電気代の請求は大変なことになりそうだが、この『暖かさ』と引き替えなら安いものかもしれないとも思った。

 今日見ていた番組は(といっても、彼女はチャンネルを変えられないので、僕が行きがけに適当につけておいた局だが)ごく普通のニュース番組だった。何が面白いのか、彼女は顔色を変えず注目していた。僕も隣に座って一緒になって見ていた。少しは世の中に詳しくなるだろうか。

10月27日。

 最近、居間で過ごす時間が増えた。

 以前はニュース以外あまり見なかったテレビを見てばかりいる。部屋にこもりきりで読書をしたりパソコンをいじっている生活が、テレビに変わったというだけで、インドアで不健康なことに変わりはない。

 テレビ番組に興味があるわけではない。テレビがお気に入りのリリィが、お気に入りなのだ。まだ彼女が家に来てから半月ほどだが、何だか彼女がリビングにいる、というのが凄くしっくりしていた。

 おかしな話だ。死者がLivingというのは、実にシュールな取り合わせである。けれども、なぜか、うまく言えない納得感があった。よくできた絵画とか、写真のような、思わず頷いてしまう光景だと感じた。

 僕は詳しくないが、有名らしい男前のタレントが、ブラウン管の中で何やら喋っている。ちっとも面白くない話に、笑いが飛び交っていた。

 だから嫌いだ。

 僕がひねくれていると言えばそれまでだが、僕はいわゆる変わり者で、人と同じことをしたり、流行に流されたりするのは好きじゃない。何かを見る目も偏っているし冷めていると自覚している。

 一方リリィは本当に楽しんでいるのか怪しい無表情で眺めていた。

 ソファで隣り合って座り、二人でテレビを茫と見ている。

 その光景は、やはり滑稽だった。

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