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旅路

紫陽花あじさいが好きです」
 隣に腰掛けた少女は周囲をはばかるように囁いて、まぶしいものを見るようにほんの少しだけ目を細めた。紫陽花の季節には遅すぎる夏の昼下がりだが、窓から差すは生い茂った深緑からの木漏れ日で、照りつけられる背中にも柔らかだ。がたがたと揺れながら木々の間を進む列車に空調はなく、しかし開け放した窓から通り抜ける風だけで十分に心地よい。いや、より適当な言い方をするならば、この場にそういった人為が入り込む余地を僕は知らぬ。日差しは海の底から見上げたならばこのようであろうというように、行き過ぎる木々の葉の合間からきらきらと覗いている。風は手にとってみることができそうなほど、まるで絹のようにさらりとして、森閑としたこの車内に心地よく揺れる音の他、幾重にも輪唱される蝉の声や、せせらぐような葉擦れの音を届けてくる。この場において、僕という存在こそが弊竇へいとうであるとの感慨は、さほど行き過ぎだとは思われまい。

 少女はこちらにその小さな顔を向けると、僕の表情を伺うようにして上目遣いをした。その仕草にも、どこか遠慮がちな様子がある。僕たち以外に乗客のない車内である。彼女もまた、単純な言葉を使えばこの風流というものへ、闖入ちんにゅうする意思のないことを態度にて表明したにすぎない。僕を見上げる彼女と目を合わせようとすると、彼女はその黒く澄んだ瞳の中に、何か見せてはいけない秘め事のあるかのように、ついと目をそらし、木々のきらきらへと視線を投げる。僕がどうして紫陽花が好きかと問うと、また静かな声で言う。
「欲張りですから」
 今度は窓外を見やったままで言った。行儀良く膝の上にのせたままだった手を気怠そうに持ち上げて、後ろで二つにくくった艶のいい黒髪を弄ぶ。白い肌とのモノクロームに、前髪を留めている赤いヘアピンのワンポイント。口は柔らかく結び、物静かな空気をまとって座ったままでいる。それ以上の言葉を紡ぐつもりのない様子なので、僕は一時夏の日を離れ紫陽花に思いをはせる。薄紅色や、もっと濃いものもあるが、先に思い起こされるのは夜明け前のような淡い藍色だ。小さな装飾花が集まっている様はそれだけで一つの花束のようだと言ってもいい。花壇に並ぶ背の低い緑色の中に水色の花束の点在するを思う。葉脈の一筋までくっきりとした葉に乗せた露が、朝日を浴びて静かな光を湛えている――。成る程、紫陽花が欲張りというのはそんな事情かもしれない。

「もう少し早く来ていたら、窓から沢山の紫陽花が見えたろうに」
 僕がそう言うと、少女は溜息を呑み込むように小さく「あ」という声をかみ殺した。僕は再び窓外に意識を戻して、流れ去っていく風景を眺めていた。

 相も変わらず僕らは心地よい揺れに身を任せながら、窓外の木漏れ日の海に見入っていた。さほど速度が出ているわけではないが、過ぎ去っていく緑の中に時折現れる紫や黄色の花が何であるのかはよく見て取れない。もっとも、種類がわからなくとも、それが単調にして見飽きぬ風光明媚に、ヴィヴィッドなアクセントを加えているのは間違いない。そんなことを考えて、ふとこれが何かに似ているなと漠然と思った。

 やがて電車はゆっくりと速度を落とし始めた。ブレーキの音は特にこの美を損ねるものとは感じなかった。見回せば辺りは変わらぬ木々の中だ。とても人の降りる場所ではないので、どうしたことだろうと外に注目していると、隣の少女が静かに、しかしどこか楽しそうに声を弾ませて言った。
「スイッチバックですよ」

 そう言ううちに、成る程運転士と車掌とおぼしき男らが交代するためにすれ違っていった。今度は少女に視線をやると、蛾眉がびの尻を下げて、眠たげに細めた瞳が横目に僕を見ているところだった。少女はすぐに視線を前に戻し、潤うような黒艶の髪を弄ぶ。先の歌うような声を聞いて、もしかしたら彼女の微笑が見られるかと期待したのだが、はたしてその野望は叶わなかった。指先でさらりと小さく踊る黒髪は見るほどに美々しく、溢れる涙のような光を湛えた瞳を、長いまつげが守り隠すような儚げな伏し目。あまり長く見入ってしまっていたのか、少女がまた横目に僕を見て、何ですかと問うた。僕は苦笑いをして、何でもないとだけ答えた。

 程なくして、車両が大きく一度揺れると、これまで来た方向へゆっくりと戻り始めた。景色はどこまでも単調で似たようなものだが、逆向きというだけで不思議と新鮮みがある。それは陽光を漏らす木々の隙間の微妙さや、窓から入り込む風当たりによるものかもしれないし、それ以上の何ものかのせいかもしれない。きっとよく知る人の横顔や、あるいは普段見せぬ表情に、違和感めいた趣を発見するのに似ている。そんなふうに思案して、僕は再び彼女を盗み見るようにして観察する。

「ああ、ほら見てください。あれ……」
 途端に少女がうわずった気持ちを押さえつけるような声で言って、向かいの窓を指さした。僕はしなやかな指の差すとおりに視線を向ける。彼女の指が進行方向と逆に移ろっていくのにつれて、その先に目をこらすが、とうとう彼女が先に指を下ろした。一体何を見たのかと問うと、彼女は困ったような顔をしてから、
「でもきっとまた見られますよ」
 とだけ言った。彼女が僕に見せたかったものが何なのか、僕は結局わからないまま、長閑な旅路を続ける。彼女はきっとまた見られると言った。僕はぜひとも見てやろうという気になって、向かいの窓の外、流れゆく木々をじっと眺めていた。

 電車はひた森を行く。僕は捜し物を続ける。

 それはなかなか見つからなかった。木々の合間とか、時折覗く空だとか、そこに何かがあると信じて、目を凝らすものの、姿を現す様子はない。景色はいっこう変わらぬ。僕は彼女に退屈はしないかと訊ねた。彼女は思いがけず眉尻を下げて目を細め、潤むような上目遣いで見上げてき、何かを言いかけた口をはっとつぐんだ。ひどく悲しそうに見えた。

 僕は何やらわからぬものを捜す。喩えるなら砂浜できれいな貝殻でも捜すように。わかっているのはきれいだということだけだ。砂と汗にまみれて、子供のようだと笑われながら、その魅惑的な何ものかへの渇望に、没頭していく。形も知らぬ癖に、すぐそこにあるような気がしている。

 そうして――ふいに顔を上げたとき、ようやく海を見るのだ。手を伸ばしていた先が、何を掴むでもない、ただ闇だったことを知る。ふらりと立ち上がり、歩を進めると、波は長く深く胸の奥を響き震わせ、足から涼を伝える。空と海が混じり合う先に、陽が溶けていくのを見る。波が引いて足下の砂を持っていく。

 例えば、いつとない、道に落ちていた猫の死骸を見たときの事を思い出す。あるいは自分の吐瀉物。他人のでは駄目だ。あのときの抜け殻な感じ。

 例えば自分の書いた物語を読み返す感じ。散髪屋で自分の髪の毛だったものが箒に掃かれて捨てられていく感じ。切られた爪と自己とが無関係だという信念の不連続な感じ。自分から切り離されたものが、いかにも虚しいことに気が付く。残ったものが虚無な幻想でないことを誰が保証できよう。

 二度目のスイッチバックに差し掛かったとき、捜し物はとうとう見つかった。電車ががたがた揺れながら停止していく。少女がまた窓の外を指さして言った。
「ほら、あれです」

 小さな薄褐色の塊である。触れれば砂でできた城みたいに儚く崩れてゆきそうな、紫陽花の枯れた姿だった。鮮やかな色を付けていた頃にはあったろう潤いは面影なく、花びらの一枚一枚がすっかり渇いている。これが先ほど彼女が見つけ、彼女に小さな興奮と歓喜を与えたものの正体であった。

 やがて電車はまた頭を入れ替えて走り出した。直ちに枯花は遠ざかって窓枠から消えていく。流れていく緑が美しかった。僕は何を言っていいのか判じかねたので黙っていた。そうして、同じく黙ってしまった少女の表情を伺おうと横顔をのぞき見た。

 その表情と言ったら! 底知れぬ瑪瑙めのうの瞳には何が映じているのだろう。僕は酩酊に似た心持ちで彼女を眺めた。少女の曇りなき笑顔を。笑顔というには硬いかも知れぬ。口は結んでいるのに近い。目元だけで笑う。ほんの少し弛緩したというだけの表情。僕でなかったら気付かなかったろうと身勝手な自負がわき起こった。同時に疑義を抱く。かつて僕はこの表情を見たことがあったろうか。

 木漏れ日の中を行く先に一際大きな光明が見えた。電車はもうじき森を抜ける。

/了

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